2010年11月20日土曜日

マイノリティとマジョリティ

昨日寝る前に、ネットで佐野元春のザ・ソングライターズのサカナクション山口一郎の回を見ていると、こんなことを言っていた。

『マイノリティな音楽がなぜ多くの人に届かないのかという理由をすごく考えていた時があった。きっと、それはメディアの表面に流れないからだと思った。じゃあどうしたらそのマイノリティの音楽が多くの人に届くんだろうと考えた時に、大衆に届くエッセンスを持ったままマイノリティなものを出す、そうすることで、もっと日本の音楽シーンが面白くなるんじゃないかと思ったし、僕が音楽を作るうえで、それに向けてのモチベーションが最近はすごく働いている。』

まだ世間にはその存在はあまり知られていないが、個人もしくはあなたとその周りの人々がこれまでに獲得してきた好きなもの、行動、作品、情報は無数にある。

それはどれだけ多くの人に認められたかを基準にするわけではなく、目の前にあるだけでただ単に素晴らしいし、誰かに分かってもらう必要はないかもしれないかもしれない。放っておいても、枯れることなく普遍的にそれは残っていくことだってあるわけだ。

しかしながら、『分かりやすくて、とっつきやすくて、問題や悲しみはすぐに泡として消えてしまう無害なものたちで需要と供給が成り立っている社会』では、いいものがいいものとして、他の人に伝わるかどうかは別の話である。

僕は、音楽に限った話をしているわけではない。
身の回りにある生活でも、趣味でもなんでもいいわけだ。

•伝えるべきか、伝えないべきか?あなたが好きなものを広めるか広めないか?
•伝えるならば、どのような方法があるのか?それは情熱だけでしかないなのか?

話は続く。



====================================

数年前に書いたものを再編していく、コピペシリーズ。

『細部に神が宿っているかどうか』

先日、上野の井上雄彦のマンガ展に行ってから、
彼の絵を頭の中でイメージを反芻してみて 出てきた質問だ。

絵が上手いとか、サッカーが上手いとか、歌が上手いとか、
世の中には色んな上手いが溢れている。

でも、その『上手さ』だけでは
人は集まらないし、人は魅かれない。

普遍的なその「作品」と
時と共に消えていってしまう「作品」とを分けるのは
『細部に神が宿っているかどうか?』じゃないかと思う。

僕は、
絵に関しても、
音楽に関しても、
建築に関しても、

特別に詳しいモノなんてほとんどない。

ただ(ここが重要なんだけれど)
直接自らの眼でそれを真剣に見つめることで(僕はライブ感という)
何か感じられるモノがあるんじゃないか。と最近ふと思った。

その一つの視点が、宿っているかどうか。

東京は歩いても電車に乗っても、
ドライブしても決して面白い街ではないけれど、
ライブ感を得やすい街だ。

コンサートも、
映画も、
スポーツも、
美術館も、
自ら時間を作り出して行かなくちゃならない。

僕が彼らの作品を言葉にしてしまう時点で、
そこから抜け落ちてしまうものが、
『細部に宿っている神みたいなものなんだよ』と言われてしまうと
それまでなんだけれど、何か書き殴ってみたかった。

==================================
※ここでいう神とは、圧倒的に何かを超えてきた技術(自分の理解)を目の前に提示されると、それはある種の世界を作り出しているのではないか?という有り様を神と言っていたのだと思う。ムズカシイ。

0 件のコメント:

コメントを投稿