2010年11月19日金曜日

チャールトン

大学の授業の中で『This is my london』というお題のプレゼンがある。
昨日は仮決定したものを担当の先生に報告する日であった。アーセナルのスタジアムの真横に教室もあるし、旧スタジアムのハイベリーがどのように利用されているかも気になるのでスタジアム運営とその周りのコミュニティの現状をやりたいと伝えた。

『よろしい』の一言。で終わればよかったのだが、サウジアラジア人のTurkey君(みんなにはトルコ人だと思われている)から横やりが入る。
『ちょっと待った。僕もアーセナルやりたいんですけれど。』先生は同じ内容は2つ聞きたくないらしく、Turkey君もどうしてもアーセナルが譲れないらしい。

『トモ、チャールトンはどうだろうか?アーセナルやチェルシーよりもおそらくロンドンらしさが残っているだろうし、面白いだろう。チャールトンにしなさい。あそこは、まだ強力なコミュニティが残っているはずだから一度観に行ってきたらいい。OK?』

というわけで、チャールトンへ突撃取材いってきます。
ウィキペディアを少し覗いてみたけれど、ファンが政党作ってしまっているじゃないか。



Wikiより参照

ザ・ヴァレイ・スタジアムはチャールトン・アスレティックの為に建設されたスタジアムであり、長い間ロンドンで最大のスタジアムでもあった。その歴史は1919年に遡る。当時、安定したホームグラウンドを獲得することが出来ずにあちこちのスタジアムを点々と渡り歩いていたチャールトンは、チャールトン・ヴィレッジの中心部にあった廃坑にスタジアムを建設することを目論んだ。しかし、クラブはスタジアム建設費用を捻出することが出来なかった。

そこで立ち上がったのがクラブのサポーターたちである。彼らはボランティアで廃坑を埋め、あるいは掘り起こしてグラウンドの形に整形し、余った土砂を周囲に積み上げてスタンドとした。「ザ・ヴァレイ」の名前の由来は、スタジアムが建設される以前の廃坑が峡谷(valley)のように見えたからである。

1984年、クラブが破産した時には、サポーターたちの設立した投資組合がクラブを買収。しかしながらこの組合は「ザ・ヴァレイ」の権利までを買収することが出来なかった。クラブが「ザ・ヴァレイ」の権利を取り戻したのは1988年であった。

とはいえ、チャールトン・アスレティックが「ザ・ヴァレイ」に戻るには、なお難問が積み残されていた。「ザ・ヴァレイ」のスタンドは老朽化が著しく、取り壊した上での新規スタンド建設が必要だったのである。クラブはスタンド再建の建築許可を地元自治体であるグリニッジバラに願い出る。ところがグリニッジバラ議会は、「ザ・ヴァレイ」のスタンド再建に反対した。

そこで彼らは「ザ・ヴァレイ党」なる政党を結成し、1990年に行われたグリニッジバラ議会の議員選挙に出馬した。「ザ・ヴァレイ党」のスローガンは「Give us back our home!(俺たちに家を返してくれ!)」であった。彼らは60議席のうち58議席に候補者を立てて戦い、「ザ・ヴァレイ党」は15,000票(10.9%の得票率)を集め、議会に一定数の議員を送り込むことに成功した。

「ザ・ヴァレイ」のスタンド再建の可否は1991年に再審議され、4月には許可が下りた。そして1992年12月5日、チャールトン・アスレティックは「ザ・ヴァレイ」を再びホームスタジアムとして使用出来るようになった。もちろん「ザ・ヴァレイ」の再整備にチャールトンのサポーターたちがボランティアとして結集したことは言うまでもない。

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